株式会社伍魚福 代表取締役社長

自分自身と家族について雑感2007.07.17(Tue)阪神大震災のこと

新潟県中越沖地震により被災された皆様には心よりお見舞いを申し上げます。一日も早い復旧・復興を祈念いたします。

地震の報を聞き、思い出されるのはやはり阪神大震災のことです。

私は1995年当時伊藤忠商事(大阪本社)のレディスインナー課に勤務しており、堺市東上野芝町の社宅の3階に住んでいました。
私は結婚5年目の28歳。長女の万里子は2歳。家内(29歳)は第2子を身ごもっていました。

家内も私もインフルエンザにかかって熱を出し、実家の母に手伝いに来てもらっていました。

1995年1月17日午前5時46分。
突然の揺れで目が覚めました。食器棚の中のワイングラスがいくつか割れました。
揺れがおさまってすぐにNHKニュースをつけました。近畿の地図が映し出され、堺市の震度は4。不思議なことに神戸周辺は震度が表示されていません。
「神戸が震源地や!」
そう直感してすぐに実家(神戸市須磨区)に電話しました。
呼び出し音は鳴るものの出ません。後で聞いたところによると庭に避難していたそうです。

今度は家内の実家(神戸市須磨区)に電話。義父が電話に出てとりあえずの無事を確認できました。
家の中はめちゃくちゃだけど命に別条はないとのこと。

それからしばらくすると受話器を上げたとたんに「ツーツーツー」という話中音のみで電話をかけることができなくなりました。

熱があるのも忘れてTVのニュースを見ていると阪神高速道路は倒壊、火事も広がりつつあります。
午後から枚方市在住の伯父と連絡がつきました。公衆電話経由ならつながりやすいと教えてもらい、近くの公衆電話から実家に電話したところようやく父とつながり、無事を確認。

その夜も延焼は広がり、伍魚福のある長田区の地名がたくさんニュース速報で流れます。道路地図を車から持ってきて、延焼した地名を鉛筆でなぞって一夜を過ごしました。
被害の甚大さに愕然。長田区の大正筋商店街など子供のころの懐かしい場所はほとんどが焼けてしまいました。私の通っていた鷹取幼稚園は被災者の基地となりました(のちにペーパードームで有名になりました)。

母は翌々日、福知山線など、動いている電車を乗り継いで何時間もかけて神戸へ帰って行きました。

神戸を訪れたのは数日後のことでした。伊藤忠商事提供のカセットコンロなどの支援物資、お世話になっていた染工場にいただいたポリタンクなどを車に積んで、三田、有馬経由の長い道のりを超えてまずはお得意先のシャルレさんへ。神戸市須磨区弥栄台にあるシャルレさんのエリアでは水道も生きており、ポリタンクは大変喜んでいただきました。

そこで私もポリタンクに水を入れさせていただいて、車で10分程度の実家へ。実家は少しひびが入った程度の被害でした。が、南へ下っていくにつれてたくさんの家が壊れて信じられない光景が・・・。

地震発生以来、思い悩んでいたことに結論を出したのは約半月後のことでした。
月曜日の朝の会議(課会)の後、課長に残ってもらい、父が神戸の長田で商売をやっていること、伊藤忠商事を退職し、伍魚福に入社しようと考えていることを伝えました。

大学卒業後の進路については「好きなようにしたらいい」との父の言葉もあり、1988年伊藤忠商事に入社しました。東京の法務部に配属となり、2年半。結婚と同時に大阪に転勤となり大阪法務審査部。そして無理を言って営業に変えてもらいアパレル部門へ。正式に営業担当となり、これから会社に恩返しをしなければという矢先の退職には大変心苦しいものがありました。
急な退職で後任の方の異動、引き継ぎなど同僚、上司の皆さんには大変ご迷惑をおかけしましたが、4月末日付で円満に退職をさせていただきました。
伍魚福へは2月の土曜日の経営計画発表会で挨拶をしたのち、4月より伊藤忠商事のお休みをいただいた日に出勤。5月1日より正式に入社しました。

5月20日には長男の舜が誕生。
6月21日には伍魚福入社と男児誕生を大変喜んでくれた祖母(会長)ががんのため逝去。
社葬を行い、たくさんの協力工場、協力会社、関係者の皆さんに弔問に訪れていただきました。祖母が皆さんに私の入社を紹介してくれたのだと思っています。

人生にはいろんな転機があります。
今回の震災が転機になる方も大勢おられることと思います。
被災された皆さんの心中はいかばかりかと思いますが、前向きに、明るく、力を合わせて努力すれば、復興も意外と早いのではないかと思っています。